滋賀のジュニアユースのトップを走るMIOびわこ滋賀U-15とは
近江高校が躍進した今年の全国高校サッカー選手権大会。
物議を醸したキーパーチャージが記憶に新しい昨年末のプレミアチャンピオンシップ。
高校年代の頂点を決める試合で、滋賀の街クラブの選手が躍動。
中でも2年連続両大会の決勝戦(サンフレッチェ広島・近江高校・東山高校)に選手を送り込んでいる街クラブ、MIOびわこ滋賀U-15は全国的にも注目されつつある。
そんなMIOびわこ滋賀U-15のの強さ、OBの躍進の理由を探りに、2月某日クラブを訪れた。
夘田貴之監督を訪ねて
JR草津駅を国道1号線に向けて歩いて約10分。懐かしい色合いとロゴがマークの自販機が置かれている。
そこは大五産業株式会社のビルで、MIOびわこ滋賀U-15の事務所はこのビルにある。
ビルのエントランスに入るとトロフィーの数々が目に入る。
MIOびわこ滋賀(現レイラック滋賀FC)が獲得した数々のトロフィー(下段)と、U-15が獲得したトロフィー(上段)だ。
トロフィーを物色しつつも、約束の時間となったため事務所を訪問。
夘田監督と出会い、挨拶と雑談をひとしきりした後、色々な質問をぶつけてみた。
JFLの選手から一転。ジュニアユースの監督に
サッカーが好きで関わり続けるために監督業に
ーいつからMIOびわこ滋賀U-15(MIO)の監督に就任されたのでしょうか
(夘田監督)2005年からですね。
MIOの立ち上げに伴い権田会長が監督を探されていたのを知り、話を聞きにいきました。
会長は各所に話をされていたのですが、自分のように話を聞きに訪れたというのは初めてだったようで、熱意を感じてもらえたのか監督を任せていただきました。まあタイミングが合ったんですね。それが33歳の時です。
ー権田会長との繋がりを教えていただけますか
権田会長は自分の大学のOBなんです。時期は重なっていないのですが、卒業後もOBとしてサッカー部に顔を出されていたこともあって面識はありました。
ー監督の前はどこを指導されてい他のでしょうか
実はMIOの監督が指導者としてスタートです。
ーそれまでは現役で?どこでプレーされていたのでしょうか。
現役引退後、数年間は空白の時期がありますが、大学卒業後に入った西濃運輸でずっとプレーしていました。
ー西濃運輸は野球のイメージがあります。
Jが出来た当時、西濃運輸はJFLに所属していました。
JリーグがJFLチームにJへの移行を促していた時期があって、JFLが無くなるという話もありました。西濃運輸はアマチュアのトップを目指そうという体制だったのでプロ化は選択せずに、そのままチームは解散しました。
その後、何チームかはJに移行しなかったためJFLというリーグ自体は残ったのですが。
ーJFLがJリーグ二部相当の時代でプレーしていたんですね
HONDAやNTT関東(現大宮アルティージャ)など強いチームがたくさんいましたね。選手ではマラドーナの弟やラモス、呂比須などがいました。
ー元々指導者に興味があったのですか
現役のころはサッカーはプレーするものと思っていましたので指導者にという選択肢はなかったです。しかし、サッカーを続けていた私からサッカーが無くなった後、何か物足りないという思いはありました。
そんな時に権田会長の話を聞いて何か物足りないのがこれだ!と感じました。
さらに草津でということでサッカーを通じて育ててもらったこの町で、今度は私が経験したことを子供たちに伝える番だと思い権田会長のもとに飛んで行きました。
指導に興味があったかと言われると無かったのですがサッカーが好きでサッカーに関わっていきたかったのです。
あくまでチームのミッションは青少年の育成
ーそこから縁があってMIOの監督に。立ち上げ当時はどんな状況でしたか
1期生は9人のスタートでしたね。当時は選手集めとグラウンド確保に苦労しました。
草津市内の小学校のグラウンドを転々としていました。野村運動公園にナイターが出来てからはそっちを使ってましたが。
ー下積みがあっての今ですね。
実際、強くなったのはここ数年のことです。チームが始動して約18年ですが県内で苦しんでいた期間が圧倒的に長いですからね。