滋賀FCの創設、そして解散危機|レイジェンド滋賀FCのあゆみ#1

野洲川歴史公園サッカー場(通称ビッグレイク)。今ではおなじみのグラウンドも、開所当時はJヴィレッジのような環境にサッカー関係者の心を踊らせ、サッカー熱を湧き上がらせた震源地ではないだろうか。

そのビッグレイクの開所に合わせて創設されたチームが【滋賀FC】。滋賀県からjリーグの参入を目指すチームとして滋賀県サッカー協会が立ち上げた。

チームのセレクションには滋賀出身の元Jリーガーが関わるなど、県サッカー協会の本気が伝わってきた記憶がある。また、メディアも滋賀FCをとりあげていたこともあり、他人事であったjリーグが身近に感じた瞬間でもあった。

さてそんな滋賀FCだが、紆余曲折を経て今は【レイジェンド滋賀FC】として活動している。今では良く耳にする【滋賀からJに】の言葉を約20年前から掲げていたのはどのようなチームであったのか。

また、どのような経緯で今に至ったのかを知るべく、チームの中心人物であるレイジェンド滋賀FCの代表である山内氏に取材を敢行。

目次

レイジェンド滋賀FCの事務所を訪問

レイジェンドの事務所は2ヶ所ある。本部は守山市内だが、この日は近江八幡市の事務所を訪問。

JR琵琶湖線の近江八幡駅北口から駅前通りを琵琶湖に向かい徒歩約15分のビルに事務所を構えている。

事務所入口

事務所に入ると代表の山内氏ともう1人スタッフの方が仕事をされていた。

挨拶、名刺交換を終えたあと、シガラボの概要の説明。今回の取材に応じるにあたり、弊サイトをご覧いただいていたみたいで、有難い限りである。

また、どこの馬の骨か分からない者の取材に応じていただいた事は非常に有難く、感謝の意を伝え早速本題を切り出してみた。

(余談ではあるが、どこのクラブも忙しく取材の依頼は断れるというか、返事をいただけないことが大半。そのため、インタビューに応じていただけるクラブに対しては感謝しか抱かない。)

滋賀FCの創設、そして解散危機

インタビュー内容に入る前に少しだけおさらい。

冒頭に記述した通り、レイジェンド滋賀FCの前身である滋賀FCと、野洲川歴史サッカー公園(ビッグレイク)は切っても切れない関係である。

なぜなら、ビッグレイクは日本サッカー協会(JFA)の事業「サッカーを中心にしたモデル的スポーツ環境整備助成事業」に行政の補助が入り整備※1され、そのJFAの事業条件に【整備施設(ビッグレイク)を本拠地にしたクラブチームの創設】※2があり、その条件を満たすため創設されたのが滋賀FCであったからである。

※1 ビッグレイクは総額9.5億円(JFA :2.14億円、滋賀県:3.26億円、守山市:4.1億円)が投じられて2005年10月2日に供用開始となった。
※2 「サッカーを中心にしたモデル的スポーツ環境整備助成事業」(助成区分B)には「スポーツクラブ創設活動事業」の実施が義務付けられていた。

-当時の状況や、経緯を教えてください。

2005年にビッグレイクが整備され、滋賀FCは滋賀県からJを目指そう「湖国からJに」を合言葉に県サッカー協会が立ち上げたチームです。

当時県リーグは5部まであり、5部スタートでは地域リーグに上がるにも4年かかる。Jに辿り着くのには相当な時間がかかるため、協会チームということもあり特例措置で1部からの参入し、練習はビッグレイクの夜の時間帯を確保してもらっていました。

-今は3部制の社会人リーグも当時は5部まであったのですね。そこから関西リーグに昇格するわけですか。

2007シーズンに関西リーグへの昇格を決めましたが、ここで大きな出来事いくつもありました。

一つ目はJFAから県協会に交付されていた補助金が2008年で終了したこと。(交付期間はもともと3年)

二つ目は佐川急便の東京と大阪サッカー部が合併し、滋賀県を本拠地にされたこと。(2007年)

三つ目が佐川急便京都が廃部した後にMIOびわこkusatsuとして滋賀県に拠点を移し、翌年(2007年)にJFLに昇格したこと。

滋賀県からJを目指し、県協会のもと活動していた滋賀FC(関西リーグ)の上位カテゴリー(JFL)に、2チームができたことで、県協会は滋賀FCの運営から離れました。

-他チームとのバランスを整えようという協会の意向も分からなくはないですが…しかし、いきなり母体がなくなるというのは衝撃だったのでは?

そうだと思います。

実は私その当時滋賀FCには関わっていなかったんです。当時私は東レに勤めていて、東レのサッカー部(当時県1部)に所属していました。

当時の滋賀FCは現在のレイジェンド滋賀FCの松下(副代表)が監督をしていて、他に守山市役所に勤めている人物が選手兼スタッフとして尽力していましたね。

まあ、滋賀FCのスタッフや選手達は国体で一緒にプレーしていたので、当時もチームをよく知っていました。

-県協会の運営が離れたことが、チーム名称の変更につながるわけですか。

滋賀FCは協会が手を引いても選手とスタッフはそのままだったので、25名ぐらいを東洋実業を紹介しました。当時、プラズマテレビが爆発的に売れた時、テレビの部品製造を行っている東洋実業(東レのグループ会社)から、需要・受注の増加に対応するため人がおらんという話を聞いていたからです。

その縁もあり、滋賀FCに残っていた8名か9名ぐらいと、東洋実業のチームを融合して2010年に【TOJITSU滋賀FC】として再スタートしました。※3

ただ再スタートする時は一文なしじゃないですか。東洋実業の当時の社長はスポーツに理解がある方で、ユニフォームがないという話を持って行ったら支援してくださった。

それが始まりですよ。なので私は2010年から代表をさせてもらっています。

※3 当時県1部リーグであった【FC TOJITSU SHIGA】と【滋賀FC】の統合・合併により誕生。

大人の事情で解散危機に至った滋賀FCは1人の情熱と様々な方のサポートにより母体を変えての活動継続に至ったが、TOJITSU滋賀FCでの再出発も決して明るい船出とならなかった。

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